UTAU-BLOG 3

by YOSHIKI HORITA from iMAGINATIONS

帰国前のメモ


いつの間にか見慣れていた景色が、もう一度新鮮に見えてくる。

好きで過ごしている場所を離れるのは寂しい。

同時に、この美しき名残惜しさが、あらたな力をぐぐぐと引き上げてくれてもいる。

出合って知ること。離れて知ること。また出合って知ること。また離れて知ること。

珍しい嵐の後で、今日のリシケシはとても穏やかな青空に囲まれていた。

帰ってきたいと思える場所があり、また会いたいと思える人がいる幸せ。

寂しさもまた、とてもありがたいものに感じられる。



つくづく、インドは色彩の豊かな国だなあと思う。目に見えるだけではなく、場所や人が持つ色(のようなもの)が強いのだ。それは時に眩しく、時に激しく、凸凹で、調和して、とにかく、とてもいきいきとうごめいている。インドにはインドの良さがあり、また問題もあるのだろうし、日本には日本の良さがあり、やはり問題もあるのだろう。どちらがいい、なんてことは単純に比較できない。ただ、インドに来るたび「感じる」部分が強く引っ張られるという、まさしく実感と呼べるものなら確かに存在する。ここでは思うようにいかないことも多々起こるけれど、それは自分の中で固まりつつあった箇所が揺さぶられる体験でもある。どちらがいいとは言えないが、時に揺さぶられながら、様々な色を感じられるのが、自分では好きだ。動いている水が腐らないように、きっと、人間の心も動かした方がいいに違いない。



リシケシで、いつも安心して食事させてもらえる貴重な食堂 Cafe Okaeri の店主Michikoさんと、先日どんな流れからだったのかこんな会話をしていた。

「人は昔テレパシーで通じ合っていたんだろうね」

別段、スピリチュアル方向に偏った話ではない。言葉の始まりはそもそも感覚の置き換えであり、共通認識や記憶のための記号のひとつだったはずだ。記号が生み出される前には、当たり前だが、今ここで何かを感じている自己がある。言葉になる以前の、純粋で、むき出しの何か。それは説明できないが、あるには、ある、ということはきっと誰にでも分かる何か。自分だけではなく、たぶん目の前にいる人にもある何か。もちろん言葉で伝えることも、たとえば肌で触れ合うことも、とてもすてきな行為のはずだ。でも、もっと強力なのは、見えないその何かでお互いが繋がっている、という感覚だと思う。頭も、体も、時々ウソをつくが、感じる領域にウソは入り込めない。言葉が生まれる前のコミュニケーション。それが一体どのようなものであったのか、二人で想いを馳せていた。

お店の外では馴染みのワンコ達が、適当な距離で、この上なく心地好さそうに寝そべっている。どうして、そこで、ご一緒に? と問うたところで、彼らは「ワン」と答えるだけであろう。今そうしているという事実だけが、そこには存在している。説明できることなんてものは、本当は、全体の中のほんのひとかけらに過ぎない。考える前に、感じている。それを忘れずいるだけで、テレパシーとは言わないまでも、全てとの関わりが少し楽になりはしないか。伝える、伝わる、そこには多様なかたちがあるのだから。


ひとつ、大好きな本から、大好きな箇所を紹介したい。以前にもどこかで書いたかもしれないが、旅によく持っていく一冊です。

「いつか、ある人にこんなことを聞かれたことがあるんだ。たとえば、こんな星空や泣けてくるような夕陽を一人で見ていたとするだろ。もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるかって?」
「写真を撮るか、もし絵がうまかったらキャンバスに描いて見せるか。いや、やっぱり言葉で伝えられたらいいのかな」
「その人はこう言ったんだ。自分が変わってゆくことだって……その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思うって」

旅をする木 / 星野道夫・著 より



日本に帰ったら会いたい顔、聞きたい声が、どこからか浮かんでくる。こういう瞬間も本当にいいものだ。

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