UTAU-BLOG 3

by YOSHIKI HORITA from iMAGINATIONS

こころとからだの平和のバトン 2日目


暑い暑いと思っていたら、東京では猛暑日の連続記録を更新、なんて言われているようでした。ニュースをほとんど見ない僕にとって、こういった情報は主に会う人との話の中か、facebookのタイムラインから入ってきます。ほほう、なるほど、と思うこともあれば、自分の人生においてさほど重要性が感じられないものについては、ほぼ自動的にスルーの習慣がついています。正直、報道で扱われている事柄の九割以上は、知らなくても困らないことばかり。摂氏30度以上が真夏日で、35度以上が猛暑日。温度も名称も単なる記号のようなもので、そんな記録はどうだっていい話です。

今日の東京も道産子にとってはたまらない暑さです。それは体感としてよく分かっています。だから必要に応じた行動をします。できるだけ質のいい睡眠を取って、水分やミネラルを積極的に摂取して、仕事はあまりしない(いや本当に)。がしがし仕事しようとしたって効率も上がりゃしません。世の中には寝ないで大丈夫な人もあるそうで、かのナポレオンは、毎日3時間しか寝てなかったとか。人それぞれに良い加減というのがあるのでしょう。僕は僕の加減で生きており、ナポレオンといえども僕の睡眠時間に影響を与えることはできないのです。

歴史上の人物を持ち出したことで、話のスケールを少し大きくすることができました。



さて、こころとからだの平和のバトン 2日目です。

1日目はこちらから。

yoshiki-imaginations.hatenablog.jp



平和とは、『広辞苑』第五版によるとこのように記されています。

1. やすらかにやわらぐこと。おだやかで変りのないこと。
2. 戦争がなくて世が安穏であること。

ああ、まさにこうありたい。
そんな言葉しか出てきませんね。

平和であることは幸せな状態といえます。ならば、幸せが イコール 平和 なのかというと、単純にそういう訳でもなさそうで、「平和は幸せである」「幸せは平和である」と、順を換えて言い比べてみると印象の違いが分かります。"多幸感"という言葉がありますが、"多平和"とは言いません。どうやら平和は多い少ないで計れないんですね。幸せはひとつひとつ感じるもの、平和は静かで広い土台のようだといえるでしょうか。平和の対義語は、戦争、争乱などだそうですが、それも"平和"というベースがあってこそ。

なので『平和は本来ここにあるもの』と、やや強引に定義して話を進めます。広辞苑にも、おだやかで変わりのないことと書いてあるし。地球誕生から46億年、そもそも基本が平和じゃなかったとしたら、我々もここには存在しえなかったと思うのです。


そんな、平和を感じる"自分"。

主体としての自分はいったい何者なのかという問いは、古くから多くの哲学者、宗教家、思想家、詩人たちがテーマにしてきました。からだ、こころ、魂、宇宙とつながっている存在、すべて。実に様々な言葉で表わされています。僕としては、それぞれが正解であり、それらひっくるめた全部も正解だと、あえて言ってみたいと思います。ここに独立しているものは何もなく、それぞれが関連し合っているからです。からだを例にしてみると、耳、首、薬指、横隔膜、名前で分ければ別のようですが、血管や骨、筋肉との繋がりを見れば、どこからどこがそれであると、厳密に言い切れるものではありません。自分という存在も同じではないでしょうか。分けられるのは言葉、名付けられた名称としてだけです。

当然ながら、この考えに至るにはプロセスがありました。

前回の最後に書いた「なぜなら僕自身、少し前までこの世は修行の場で、辛いことばかりだと思い込んでいたのですから。」

かつての僕の人生の記憶は、辛い辛いばかりだったんですね。ただ、ここで「あンの頃はッ!(ハッ!)」と不幸な歴史自慢をする気もないので詳しい説明は省きますが、幼い頃から家に馴染めず、学校に馴染めず、中学の頃は親に精神科へ連れて行かれ、たびたび自殺を考え、うつ病。その後、唯一大切に続けていた音楽を仕事にするも大きく挫折、ストレスで倒れて入院、30歳過ぎて無一文、交通事故。ざっくり並べてみても、やめてくれーという感じです。ははは。

それが今では、平和や幸せを毎日感じてしまっているんですから。人生まったくもって分からないものです。辛かったはずの話を書こうと思ったら、逆にありがたくなってきちゃって。前回に書いた足の怪我もしかり。またひとつ貴重な体験ができて、成長する機会をもらえてラッキーとさえ思うのです。


何が変わったかといえば、考え方だけです。こころの在り方。

辛い辛いの時期は、誰か、何かのせいにばかりしていました。親のせい、学校のせい、教師のせい、環境のせい、友達のせい、恋人のせい、レコード会社のせい、時代のせい、などなど。

これは、からだばかりを自分そのものだと思っていたからなのだと、当時を振り返れば分かります。自分の存在がからだということは、他の存在もからだ。どれもこれも単なる物質で、ほとんど目に見える範囲だけの世界。ここでは、いつも状況や相手は思い通りになんてならないし、かといって、自分が思い通りになるかといえば、決してそんなこともない。考えてみれば、そもそも心臓は勝手に動いているし、呼吸も勝手にくり返されている。晩飯食べればなぜだか眠くなる。この不思議で不安定な肉体が自分のすべてなのだとしたら、同じように不安定な他者や、思いがけない出来事ばかりの中で、なにをどう安心して生きていけましょうか。そこに引っぱられていれば、しんどいなんて当たり前の話です。

もちろん、からだは大切です。からだがなけりゃ体験できないことがたくさんあるんだから。でも、それを支えていくべき重要なものが、こころなのです。「私は神と一体である。つまり、神である」という悟りきった方はひとまず横ちょに置いといて、誰にでも感じられる自分は、まず、からだとこころだと思います。このふたつのバランスを見ていくことで、さらに深い領域へ意識を向けることができるはずです。


僕の場合は、歌、声、呼吸、瞑想がその糸口となりました。

むかしの自分の、ある歌を聴くと、からだだけで唄っているな~、頭だけで唄っているな~、悩んでるな~、本当にありありと見えてきます。それは、その時の自分をそのまんま映し出した鏡だったのです。めちゃめちゃ頑張ってはいたんですけどね。

この世には宿命と運命とがあります。宿命とは、男性である、堀田家の三男であるなど、生まれついて宿っているもの。これは意思によって変えることができません。運命とは、運び、動かすことができるもの。貧乏な家に生まれたのが運命だとしても、それが嫌だったら、自分が望むように切り拓けます。からだそのものは宿命的な要素が多く、もちろんすべてではないものの、ある程度の資質が決まっているといえるかもしれません。例えば声は、声帯の大きさ、骨格、筋肉のつき方、共鳴腔(口腔、鼻腔など)の広さ、他にも多くの要素が関係し合って、その音色が決定されます。トレーニングによって成長する部分はたくさんありますが、自分の声が気に入らないといって誰かの声帯と付け替えることなど、最新の医学をもってしても不可能です。どんなに強く憧れても、他の人になれはしません。自身の宿命を受け入れつつ、それと共に運命を切り拓いていくというのが、もっとも自然で美しい形といえるでしょう。そういった行動を生み出すのも、やはりこころです。

からだや見える範囲ばかりに意識が向いている状態では、不足感との戦いを避けることができません。そもそも人間は、いずれ肉体の死を迎えるという、逃れられない宿命のからだを持って生まれてきています。そこだけにフォーカスすれば、なんとも頼りない、不自由ないのちです。生きる上での大いなる前提が「いつか死ぬ」ですから。不完全さ極まりない。不完全さに目を向けるんだったら、日常の中での足りないことなんて、細かく上げればキリなどありません。自分はあれを持っていない、あの人が言うことを聞かない、思い通りにいかない。ない、ない、ない。見つけようとすればいくらでもですね。誰かの、何かのせいにするというのも同じこと。足りないという思い(重い)が抱えきれず、その責任の所在、着地させられそうな場所をどこかに求めてしまうという。

けれども、そんな時の"自分"はどのような気分でしょうか。元気でしょうか。楽しいでしょうか。色にするとどんな色でしょうか。

比較はこんな時に使うとたいへん便利です。どっちがいいのか、好きなのか。いくらでも選ぶことができます。どんよりした違和感があるのなら、その反対側には、すっきりした光が見えるかもしれません。僕が実践するようになって、それによって人生が大きく動いたことのひとつが、好きなもの、ワクワクするほうを選ぶ。かなり真剣に。です。冒頭に書いた、ニュース、取捨選択、行動についてもそう。速くて多いだけのスカスカな情報に巻き込まれるのは、まるで楽しくありません。噂話や悪口よりもあなたの話を聞かせてほしいし、可能な限り笑っていたい。足りないものをあれこれ数えるよりも、今あるものに最大の感謝をして、できることをやったほうがずっといい。シンプル極まりないですが、これは命がけで体験し、学んだ、確かな指針でした。

「こころを入れ替える」とはよく言ったもので、肉体は替えられませんが、こころなら望むように替えることができるんです。そしてこころが先導してくれると、からだも、声も、不思議と変わっていくんですね。



3日目につづく。

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今日8月6日は、原爆の日。すべての人の心に平和をお祈りします。