UTAU-BLOG 3

by YOSHIKI HORITA from iMAGINATIONS

今日できることに心を込める。


新潟、静岡、長野へ行っていた。途中、東京ではウェイロン・ベルディングとのキルタン、先月の岐阜リトリートを主催してくれた竹中光麗さんのふんどし説明会や、抱きしめる聖者アンマに会いに行ったり、翻訳家/文筆家の田内志文くんに会ったり、ザ・コレクターズの阿部耕作さんと打ち合わせしたり。それと最近は初めてレッスンに来てくれる方がとても増えて(時々こういう時期がある)、いわゆる休みは少ないはずなのに、まるでそんな気がしていない。

好きなことをしたり、好きな人に会ったりしている間はほとんど疲労がない。身体は疲れているかもしれないけれど、それを感じることがない。人間は肉体だけで生きている訳ではなく、心と共にあるのだなあとあらためて実感。心が満たされていると不満も出ない。体を動かしたり食べ物に気をつけたり、傍目には健康的と言われるようなライフスタイルを送っている人でも、イライラしたり、哀しげなオーラを放っている人を見かけることがある。具体的な理由はそれぞれにあると思うけれど、総じて心が疲れているのだろう。「人はパンのみにて生きるにあらず」とは聖書の言葉。何ごともバランスが大切なのだ。

発声法、呼吸法を一緒に練習することは、僕にとって喜びである。自分で歌うことも、練習することも同じように喜び。唱うヨガと呼ばれるキルタンの練習とシェアもそう。ここ数年で大きく自覚しているのは、ほとんどの行為に境界線が無くなったこと。何をやっていても自分でいる。それと、不得手がいっぱいあると認められたこと。だからできること、好きなことにとことん情熱を注ぐ。自分の心と体が本当に喜ぶこと、誰かと一緒に喜べることに時間を使う。この肉体は永遠ではないから大事に時間を使う。できないことはできる人に、感謝してお任せすればいい。お互いにそのほうがいい。

昨年、父が亡くなったのは本当にどでかい出来事だった。父の日の広告が目につくこの頃、また少し悲しくなってしまったのは正直な気持ち。最近も近いところでの別れがいくつかあり、胸の奥に感じるものが隠せないでいる。先日三度目となったインドの旅、バラナシのガート(沐浴場)では、一日中、目の前で火葬が行なわれていた。父についてと、インドの旅については近いうちに書き残しておきたいと思いつつ、ただすごく思うのは、死を考えることは生を考えることと同義であると。陰と陽、善と悪、プラスとマイナス。どちらがどうという平たい判断ではなく、いつでもふたつはセットであって、決して切り離せない。だから、どのように生きたいかは、どのように死を迎えたいかを考えれば、ある程度導き出せたりもする。誰でもいつかはその時が来る。心配して怖れても、笑って暮らしていても、等しくそれはやってくる。今日できることは自分で選べる。「いつか」は今日の積み重ね。好きなことをしよう。

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